キャリアが渋滞してよく分からない人になっているが、私の社会人としての第一歩はファッションデザイナーであった。
物心ついた頃から、異様に洋服が好きだった。
女児なら誰しも通る「お姫様」を描くという時期がある(もしかしたらイマドキはギャルだったりプリキュアかもしれない)が、私がそこに傾けた情熱は並大抵のものではなかった。
フリルのひとひだひとひだ、スカートの裾から覗くレースの柄、パフスリーブのギャザー、胸元を飾るビジュー、薔薇やマーガレットの花飾り。
幼い私はちょっとキモチワルイほどのフェティシズムを発揮して、それらをネチネチと描き続けた。
さらには、アニメのヒロインに着せたいお洋服、自分が着たいお洋服を、溢れるパッションでそこらへんのちらしの裏に描いた。
紙は足らず、学校のテストも5分くらいで表をチャチャっと片付けると、紙を横向けにして裏に「デザイン画」を描き殴った。
先生に見つかって、よくテスト途中で没収された。
(ちなみにB4のテストの裏にデザイン画は6体かけたが、働き出すとA4に2体だった。プロって贅沢)
物語を作るのも好きだったから、漫画家を志す方向もあったのかもしれないが、とにかく私の興味の中心は洋服だった。
余談だが、大人になって母の親友に会った時、「今、この子お洋服作ってるのよ」と母が言った時、彼女は私に笑いながら言った。
「そうなると思ったわ。だってあなた、お母さんに連れられて私のとこに遊びに来ても、途中でお色直ししてたやん」
そう。「母の友人宅」というハレの場で、一通り本日のコーディネートの紹介が済むと、私は別室を借りて自主的に持参した荷物から洋服を取り出し、「本日のコーディネート その2」に衣装チェンジをしていたのだった。紅白の司会か。
興味はやがて、作る方に移った。
小学5年生の時にマイミシンを買ってもらうと、自分の洋服を縫い始めた。
当時の「装苑」や「ジュニアスタイル」といったファッション雑誌には、洋服の型紙が掲載されていた。
私は古新聞に型紙を引き、安い布を買ってきては、自分のキテレツな洋服を縫っていた。

ちなみに当時のセーラー服の「いけてる」アレンジは上衣もスカートも極端に短くし、カバンはぺたんこに潰すことだったが、私は機能的にもバランス的にも、それに美を見出すことができなかった。
そのため、中学時代の私のスカートはしっかり膝下丈、バッグもたっぷり収納タイプだった。
学校では完全に標準タイプの制服・制鞄で全く無頓着に見えるニコちゃんが、休日に街で見かけると腰までの髪をサイドポニーテールにし、キテレツなファッションに身を包んでいるのは、同級生から見るとさぞかし謎であっただろう。
やがて私は、洋服の仕事をしたいと思うようになった。
思うようになった、というよりは「あ、私は洋服の仕事をするんだ」と気づいた、というほうが近い。
友達同士で将来何をするの?という話になった時、口からついて出たのが「服を売る」だった。
中学の進学面談では鼻息荒く「高校には行きません、服飾系の高等専修学校で洋服を作ります!」と言って両親と教師に全力で止められ、なまじ成績が良かったので、それなりの公立高校に進むことになった。
ただ、入る前から「でも大学は行かないから、私、お洋服作るから!」と言い続け、相変わらずミシンを踏み、バイト代を貯めて買った60色色鉛筆でデザイン画を描き、休日になるとミナミでブティックを周り、ウインドウショッピングをし、マイバイブル「装苑」を読み漁る日々が続いた。
高3になると「国公立理系」「国公立文系」「私立理系」といった具合にクラス分けがされるが、私は「そ、その他…?」みたいな謎のクラスで、3年にもなって音楽や家庭科や国語表現といった楽しいだけの授業を選択し、相変わらず趣味全振りの気楽な毎日を送っていた。
ところがここで、大きな転機があった。
周囲の友人たちの志が高すぎた。
共通一次試験、予備校、宅浪(自宅浪人。ただし私は当時、みんながタクロータクローというのは吉田拓郎のことだと思っていた)などの受験用語が飛び交う周囲についていけないことに突然疎外感と寂しさを覚えた私は、高3の冬になっていきなり「………私も大学受けようかな」と言い出したのだ。
タチの悪いことに、その頃私は「ダブルスクール」という言葉を知ってしまった。
なんか、大学と専門学校って、両方いけるらしい。
「こいつ、いきなり何を言い出した」とあんぐり口を開ける家族、教師、友人を尻目に、希望の学科があって国語と英語の二科目受験ができる大学を調べ、受験まで残り2ヶ月で英単語だけをシャカリキに覚えた。
(国語の成績だけは良かったので、これは受験勉強をしなくてもどこでもいけるという自信があった。)
そして、なんとかぬるっと神戸のある大学に滑り込み、2年になると梅田の服飾専門学校の夜間ファッションクリエイター科に入学した。
8時半から神戸の大学で授業を受け、17時に授業が終わると18時から20時半まで梅田で服飾の授業を受けるという二重生活がスタートしたのだった。
ここから、「止まると死ぬマグロの化身」と言われる、シャカリキ生活がスタートした。
(つづく)

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