「最近の若者は」なんてとても言えない、自分が新人の頃の話〜making nico ファッションデザイナー編②

そうして私は、4年制の大学(心理学専攻)と、3年制の専門学校(夜間ファッションクリエイター科)を同時に卒業し、アパレルメーカーに就職した。

ここで今さらの話だが…実は当時の私は、デザイナー志望ではなかった。

実際に専門学校に行きだしてわかったのだが、世の中にはファッションモンスターは非常に多いのだ。しかも、相当crazyなのが。

当時の専門学校のデザインの先生が現役で装苑賞とかのデザイナー登竜門を狙っていて、その後実際に自分のブランドをもった、ごりごりのクリエイターだった。
特に私の学年の夜間科は強者揃いで、同級生がオンワード新人賞を獲ったりもした。

そこで、はっきりと自覚したのだ。ああ、私は川久保玲にもマルヤマケイタにもなれないと。

これは別に絶望とか挫折とかではなく、「目指す方向はそっちじゃないんだな」という冷静な自覚だった。
私の夢は天下を取ることではなく、お洋服で飯を食っていくことだった。

そこで、MD(マーチャンダイザー)という仕事を知った。アパレルで、商品の企画から販売戦略までを仕切る仕事。

私、むしろこっちじゃない?
なんだか、その仕事内容は一つ一つの洋服のデザインを考える以上に「びびびっ」とくるものがあった。

そうして私は専門学校の就職活動が本格化する前の新卒大学生の採用で、総合職就職を狙うことにした。

第一志望が、なんと最終面接後の内定の連絡待ちの期間に倒産するという衝撃の事態があり、私は第二志望のアパレルメーカーで総合職の内定をいただいた。

結果的に、これはとてもラッキーだった。
その会社は、企画職は経験者のみで専門学校からの技術職採用がなかったから。
ひとまずどの新人も最初は店に配属されるということで、直営店の販売員として店頭に立つことになった。

そこは難波の一等地、「贅沢な普段着」をコンセプトにしたブランドショップ。
イメージ的には、ピンクハウスをフォークロアっぽい雰囲気に振ったようなお洋服。

デザイナーさんの感性あふれる、独特なプリントやモチーフが学生時代から大好きだったブランドの服に全身身を包み、私は終始ご機嫌であった。

とはいえ……今になって思えば、当時の私はかなりのモンスター新人であった。
というより、もはや野生児だった。

「すっぴんで来るな(寝坊して眉毛だけ描いていた)」「立ったまま寝るな(午前中のショップは暇だった)」「仕事中に飴をなめるな!(ドングリ飴をなめてハムスターみたいになっていた)」と、とても総合職採用とは思えないような注意をされ、お客さまの顔は(例の相貌失認で)覚えられず、おそらく店長やショップリーダーは「最近の新人は、こんなことから教えないといけないのか…」と衝撃を受けていたことだろう。

ただ、圧倒的に服が好きだったし、押しが強かったし、運がよかった。

常識なんてものはまったくなかったが、注意されたら真っ白から取り入れる、素直さと柔軟さはあったのだと思う。

とにかく常連さんが強い店で、月に10万以上は買う「ロイヤル」と呼ばれるお客さんがたくさんいたし(◎十年前ですからね…)、すごい人はうちの商品を保管するための倉庫まで借りていた。

私はそこで、似顔絵付きの顧客メモをつくってなんとか常連様の顔を覚え、新たなロイヤルを開拓した。
必要ならフルコーデで世界観をばっちり構築して提案もしたし、うちの商品とはまったく違うけど、「このセーターかわいい!」と飛び込んできたギャルには、「うん、これってこういう着方じゃなく、ミニスカートとロングブーツを合わせて着てもかわいいと思うよ!」と、デザイナーさんが聞いたら首を絞められそうな着こなし提案もした。

3ヶ月目になると、私は売上で店の販売員のトップに立った。

さらには店舗のメインディスプレイも任せてもらった。
「初秋」をテーマにしたディスプレイのため、家で枯れ葉を拾い、ショパンの「別れの曲」の楽譜を持参し、今季のプリント柄のハギレをもらって、パッチワークのテディベアまでつくった。

そうして最初のサマーセールを乗り切り、商品がすべて秋に入れ替わった頃、ショップリーダーと店長から思わぬお話をいただいた。
なんと、会社で初めて、企画部の新人を育てることになったという。
よって、社内でコンペを行うから、デザイン画を提出するように、と。

後から知ったことだが、これは「今年の新人にこういう子がいる」と、ショップリーダーが本部に声をかけてくれていたらしい。

これはもう、「え、私MD志望なんだけど…」と言っている場合ではない。

燃えた。燃えました。

持てる力を振り絞り、野望と希望と妄想とが入り交じったドロドロに情念のこもったデザイン画を描き上げ、見事社内コンペを突破した。

そして、4ヶ月目にして、晴れて本社の企画部へと配属されたのである。
(ちなみに、次の同期が本社に戻ってきたのは1年後。
同期入社の二十数人のうち、本部に戻れたのは二人だけだった)

さらに、半年後には基幹ブランドへの配置換え。

こうして、あれよあれよといううちに、気がつけば私はデザイナーになっていたのだった。

(つづく)